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教室理念

愛情豊かに最高の音楽教育を広めること

最高のピアノ指導とは、
・身体が楽であること
・譜読みが楽にできること
・自ら学びたくなる愛情あふれるレッスン環境があること

私はそう信じています。
以下、少し長いのですが、私がそう信じるに至ったお話をします。
目次

私がピアノを教える理由

基礎がないまま練習していた小学生時代

私は小学3年生のときにピアノを始めました。
大手の教室で、若くて可愛くて優しい女の先生でした。
たくさん褒めてもらえて、楽しくて、夢中で練習しました。
教本はあっという間に進み、6年生の頃にはモーツァルトのK.545のソナタを弾きました。
いえ、弾こうと思って毎日2時間練習していましたが、実際のところ弾けていませんでした。
指が回らないのです。ハノンもやったし、音階も全部弾けるのに、頑張って練習しているのに、どうして!

楽譜も読めていなかったことに気づいた日

小6の最初、大好きだった最初の先生の苗字が変わり、中学生になる頃に先生のお腹が大きくなりました。
私は先生が辞めることのショックが大きく、うまくおめでとうが言えなかったことを覚えています。
大手の教室は次の先生をちゃんと用意してくれましたが、私は新しい先生の香水の香りと雰囲気に馴染めず、レッスン一回で辞めました。
その後ついた先生のもとでバッハなども弾き、あることを言われました。

「ゆかりちゃん、もしかして楽譜見てすぐに弾けないの?」

え?どういうこと?

と私は思いました。

ピアノは練習するから弾けるものであって、練習もしない曲を一目見て弾けるものなの?

実はそれまでの私は、毎日2時間練習して1週間で宿題の曲を覚えてレッスンに通っていたので、先生方からは「よく弾ける子」と思われていました。私が、楽譜を読むこととピアノを弾くことを同時にできないということを、最初の先生は知らずにいたのです。

三恵先生との出会い

そんなときに出会ったのが三恵先生でした。

ピアニスト「松岡三恵」といえば戦後すぐの頃に日本国内のとあるコンクールで大賞をとり、パリ国立高等音楽院に留学して一等賞をとって帰国した超エリート。しかも小学校3年生のときに空襲で家もピアノも失い、それからずっと学校のおんぼろピアノを借りて必死の練習したという苦労人でもありました。(コンクールはピアノを持たない状態で優勝したそうです)
ですが、地位も名誉も眼中にない三恵先生はあまり名前を知られていません。

私は中1の秋に三恵先生にめぐり会いました。紹介してくださったK先生にも、本当に感謝しています。
K先生ご夫妻には聴音・ソルフェージュ・楽典の手ほどきも受けました。

指を一本ずつ上げるだけのレッスン

三恵先生のレッスンは衝撃的でした。

すべての指で鍵盤を押さえた状態から、一本ずつ指を上げて、下ろして、を繰り返す。
肩から先を完全に脱力した状態でそれを行う。
ハノンにもチェルニーにもそういう練習は載っていません。
しかもシンプルなのに難しいのです。

指の独立のためのトレーニングです。

(大人になってから調べたところ、同じ練習をコルトー、イジドール・フィリップ、レシェティツキー、ドホナーニ、そしてWeb閲覧だけですがカルクブレンナーの本にも見つけました。)

三恵先生はフランスで、基礎から徹底的にレッスンを受けたそうです。真に謙虚な人はコンクールで優勝したとしても、真摯に自分に必要な勉強に取り組みます。そうして完全に身につけてきた人でした。
その謙虚さと偉大なる勤勉さに圧倒され、私は毎日3〜4時間は基礎練習に取り組むようになりました。

そうなると指も手も体も目に見えて毎日変わっていくのがわかります。本当に嬉しいことでした。

三恵先生も「今だけだから週に二回いらっしゃい」と言ってくださり、二回に一回は謝礼の受け取りをやんわりと拒否されました。うちにお金がないことなどお見通しだったのでしょう。もちろん先生の優しさの表れでもありました。そして身につけるべきテクニックは山のようにありました。

そして弾いたショパンのノクターン作品9の1。有名な作品9の2より、少し長くて、もっと夢のような曲です。先生の開催する2か月に一度の「弾きっこの会」で、私はこのノクターンを弾きました。

単身アメリカへ〜ペリー先生との出会い

私の弾いたショパンのノクターンを聴いて、三恵先生の旦那様の音楽評論家の先生が言いました。

「ゆかりちゃん、あなたアメリカ行きなさい。すごく良いもの持ってるよ」

いやいや、そんな簡単な話じゃないんじゃ。

そう思う私を飛び越え、私の両親の説得のため、何度か一緒にお食事をしてくださった三恵先生ご夫妻。聞けばとても良い寄宿学校があって、先生のお嬢様の母校とのこと。

内心はいつかは留学してやると思って英語の勉強も頑張っていた私は、状況が許すなら行きたいと、資料を取り寄せていました。

そしてミシガン州のインターロッケンへ。
全米のみならず、世界中から若い才能が集まる場所でした。

まず同じ高校が主催する8週間のサマーキャンプへ。
そこには三恵先生の門下生の里奈ちゃんという先輩がいて、スティーブ・ペリー先生を私に紹介してくれました。

ペリー先生は初め、

「ユカリはどうしてここに来たの?リナと比べるとレパートリーも少ないし、初見もできないじゃない?」そんなことを言われました。無理もありません。当時の私は本当に弾けるものが少なく、初見もできなかったのです。

でもアメリカ人らしい朗らかな人で、お兄さんのように気さくに接して下さいました。先生から、私は徹底的に初見について教わることになります。

初見の特訓

高校の方はアーツアカデミーという名前でした。

当時は本格的に留学することになるとは思っていなかったのが、覚悟を決めてきちんと入学オーディションのテープを作ることになりました。

今思うと、私の当時のレベルでは日本の音楽高校は無理だということが、三恵先生にはわかっていたに違いありません。

何はともあれ、学費も6割以上は返済不要の奨学金で賄えることが決まり、入学が決まって、ペリー先生の元での勉強が始まりました。(すでに日本の普通科高校に2年通っていたのですが、大学受験のことを考えアカデミーの高校2年にあたる学年に編入しました。)

これ以上ないというくらいの丁寧なレッスン。

ノートを作るように言われ、言われたことはそのまま書き留め、次のレッスンで同じことを言われないように気をつけました。
バッハ、モシュコフスキーのエチュード、ベートーヴェン、シューベルト、サン=サーンス、ドビュッシー。一年目のレパートリーです。時期を分けて他の曲も弾きました。

そして、初見の特訓も始まりました。

使った教材はバルトークのミクロコスモス。

バルトークは、それまで近現代の作曲家といえばドビュッシーくらいしか弾いていなかった私には思いもつかないリズムや音が多彩に広がり、一瞬たりとも楽譜から目を離すことが出来ない作曲家です。
しかもミクロコスモスはバルトークの長男に向けて書かれたものということで、最初は子ども向けに少ない易しい音だけで書かれていて、6巻までに次第に難易度が上がるようになっています。
これを毎日、初見のルールに則って弾いていくのです。

そして学年の終わりには1時間ほどのソロリサイタル。
これは単位を取るための学校で決められた必須科目でした。実技試験とは別に課せられます。
録音してくれた友人がいるので、そのうち少しだけでも公開しますね。

コンチェルトコンペティションでファイナルへ

学校内では、コンペティションもありました。
コンチェルト(協奏曲:ソロ奏者とオーケストラのための曲)を競うコンペティションで、入賞すると学校のオーケストラと共演できます。先輩の里奈ちゃんはここでラフマニノフの2番を共演したという秀才でした。

私はコンクール経験もなく、自分が弾くつもりもなかったのですが、「誰かと戦おうなんて思ったら負けだよ。コンクールは自分との戦いだから。きっとすごく上手になるからやってごらん」とペリー先生に諭され、アカデミー2年目の私はラヴェルのト調のピアノ協奏曲を弾きました。第1楽章だけでしたが、本番前は一日8時間くらい弾きました。
そして何と予選通過。
できるような気がして、ファイナルで演奏。
恐れ多くも、入賞なんて出来ませんでしたが、悔しくて悔しくて、生まれて初めてピアノのことで泣きました。
でも、入賞した子達はジュリアードやカーティスや、錚々たる大学に進学した精鋭ばかり。彼等と対等に弾いたことはすごいことだったかもしれないと思います。

選抜メンバーとしてスミソニアン博物館のピアノ300年展示会へ

「君は評価されているんだよ」と知らされたのはスミソニアン博物館で演奏する選抜メンバーに選ばれた時でした。ピアノ科は全学年で50人ほどいて、12人だけがメンバーに選ばれました。

バスで長い時間をかけてワシントンD.C.へ。
仲の良い友だちがみんな一緒で、遠足のようでした。この時のことはまたブログに書こうと思いますのでお楽しみに!

初見の壁〜サンフランシスコ音楽院にて

インターロッケンを卒業して、私はサンフランシスコ音楽院に入学しました。
サンフランシスコではマック・マックレイ教授のもとで学びました。(マックレイ教授のこともいつかきちんと書きたいと思っています)
そこで改めて打ちのめされたこと。
それは、自分がいかに初見ができないか、ということでした。

初見の試験に受からないと室内楽のクラスを受けられないのです。(室内楽とは、小編成のアンサンブルのことを言います。たとえばピアノトリオと言えばピアノ、ヴァイオリン、チェロで演奏)。
必須科目のアンサンブル科目を合唱か伴奏、ピアノアンサンブルで取るだけに終わってしまいます。
室内楽オーディションはモーツァルトの三重奏曲(ピアノトリオ)を初見で弾くというものでした。他にソロも弾いたと思います。

落ちました。

自分の弱点とわかっていたけれど、悔しい。

バロックアンサンブルで通奏低音

そこで私は大好きなバロック音楽に焦点を絞りました。通奏低音を極めてバロックアンサンブルで弾くのです。(バロック音楽とは、1600年〜1750年頃までの音楽を指します)

通奏低音とは、数字のついた最低音部のバスパートに、右手で即興的に和音や装飾を入れていく奏法です。バロック時代の合奏曲はほとんどチェンバロがここの役割を担います。深い理論の知識を必要とするので、相対的に演奏者が少なく、私にもチャンスがある!と思いました。初見能力の乏しい私でしたが、理論が得意で、練習する能力はあったため、一日4時間くらいチェンバロを弾き、3時間だけピアノを弾くという時期もありました。
希望者が少ないのか、オーディションもなく、私は弾かせてもらえることになりました。

とにかく、2年くらいはバロックアンサンブルで弾いていたと思います。他の楽器と演奏する幸せを噛み締めた時期でした。

指導者ライセンスの初見試験

時代は現在に近づき、卒業後、結婚して子育てをしながらピアノ教室を開き、ピアノ指導者としての勉強をしていた私は、全日本ピアノ指導者協会(PTNA)さんの指導者ライセンスのことを知りました。指導・演奏・筆記・セミナーレポートを初級・中級・上級それぞれで、さらに初見の試験演奏もあります。
自分が指導者としてはまだまだという自覚があった私は、受験を決めました。

記録を見ると、2008年に最初のレポート提出をして、2021年に全級取得しています。2011年に2人目の子どもを授かり、少し試験から離れていた時期もありました。

初見の試験に限って言いますと、2011年に試験を受けて、落ちています。2020年に初見の試験を受け、その時に合格しました。しかもこの時は92点という高得点。

9年で何があったのか。

生徒たちのために教本を買い漁り、弾きまくった時期があったことが大きいと思います。初見は、易しい曲を練習もせずに大量に弾くことで養われる能力なのです。

私がピアノを教える理由

私は、ピアノの学習を始めた最初の時期に、正しい方法で習わなかったために、努力の無駄遣いをしてしまった時期があります。体の使い方、楽譜を読む時の注意点など、最初からきちんと理解するまで教えてもらっていれば、遠回りをする必要が無かったかもしれないのです。

私は最初の先生のことは大好きでしたし、褒め上手な先生のおかげでピアノも大好きになりました。一方で、最初の時期から一流の指導を受けた級友が羨ましいと思ったのも事実です。

弾くのが上手な先生はたくさんいます。
私の最初の先生だってとても上手でした。
ですが、生徒がちゃんと理解するまで付き合える先生には、生徒の何十年先の人生をも見据えた覚悟と、信念の上に積み重ねた経験があると思います。
私はそういう先生でありたい。

普通の街のピアノ教室で、きちんと最高の指導すること。私が恩師から可愛がってもらったように、生徒たちには愛情をもってレッスンして、その後の人生を豊かにしていってもらいたい。

私の心からの願いです。

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